昭和48月02月25日 特別奉修委員
今朝から神の恵みを人知らずと言う事、親心を子知らずと言う御教えを頂いて、本当に神の恵を分かる事へ本気で勤めると言う事、神のおかげを天地の大恩を分かれば、子孫も続き、家繁盛子孫繁盛のおかげが受けられると仰るぐらですからね、どうしてもやはり、あの、神のお恵み、大恩恩恵をね、神の恵を分かる事の精進をする事が信心とさえいえれるわけですね。
先日、古屋さんの一年の祭の式念祭を仕える時に、今度末永先生が中心になって、壱岐の勇先生にも呼ぶし、それから日田の方へ勤めておられる弟さんの紀久男さんにも、まあ、一生懸命呼びかけて、そして、もうあの人の三人のあれでお祭りが出来たと言う様な感じのお祭りでした。これは、もう例えて言うならば、お神酒なんかでも超特級のお酒を三本、それから、言う特級酒を三本、お三方二台ですね。
それからビールなんかでもあの二ダース入り一箱、もうジュースとかサイダー、もうそれこそ、箱ででした、もうまるっきりご大祭のごたる事で、もう兄弟三人が一生懸命、それはどうしてそういうことに自分が兄弟達に呼びかけたというと、まだ僕達が子供の時にお広前のご普請があった時にね、古谷さんから一万円金を借りちゃった、壱岐の教会がね。それをもう何十年になる今日までね、全然叔父が催促をせん。
これはお前達がしっかり覚えとってくれよとお父さんが言うちゃった、子供の時にいわっしゃったげなたい、もうそれが忘れられないっち、だから、もう本当に叔父がおる間に何も出来なかったから、これは一年の式年をさせて、今おばさんがなかなか大変しよるから、もうこれも僕達だけでもおかげをいただかにゃんというてね、あの思うって。子供の時に親が言うておるその喜びをね。
それも一口も、ならそれに対して返してくれも言わん、おじさんに対してお前達がしっかり、言うならば、ご恩返しをしてくれという意味でしようたい、その、まあ、言われとった事が忘れられない、それがこのお祭りにもその万分の一でもと言う気持ちで、まあ兄弟達がこさせて頂いたといったような事を言ってましたけれどね、いわゆるその私は分かるという事はそう言う事だと思うんですよね。
天地の大恩がなら分かる、という事はそう言う事だと、けれどもなかなか、天地の親神様は、貸したとも貸さなかったとも、忘れんでおってくれよとおっしゃらんからね、だから本当に天地の大恩が分かって、その大恩に報いる生き方さえすりゃ、もう絶対の人間の幸せが約束されとるほどしの事じゃけれども、それが分からん、漠然と、話を聞きゃ分かるけれどね、分かるだけじゃ行かん、今でも末永さんが、それを実際にそう行わなければおられないほどしのもの、そう言うものがね。
なら恩が分かったと、言う事じゃないかと思うんですよね。その恩に対して報い奉るという事ですよ。そこで、私はその事をお礼させて頂いとりましたら、あの渋柿の皮をむいて吊るし柿を作る、それがもうブタブタしておるところの、まあそれこそ味はなんとかの吊るし柿というようにですね、もう干し柿よりもその中ぐらいの時の生柿の時が一番渋も抜けてちょうどおいしいところ、まあ皆さんの場合なんかはちょうどそこんにきが楽しいという信心じゃないでしょうかね。
ですからね、その味わいと言うものがね、だからもっともっと、だから例えばよね、まあ、合楽ではですよね、皆さんがその、だから、これをなら美味しい時に、頂かずに干し柿にする事によって、これは徳になる訳です、でいつまでもおかれるというね、子、孫も続きと言う事になって、くるわけなんです。あの世にも持ってゆけ、この世にも残しておけると言う事になるわけなんね、ブタブタした時は持っちゃいかれん、そん時食べてしまわなんね。だからもう一辛抱させてもろうて干し柿にした時に。
初めてお徳になるとですがね。ですから結局ね、神の大恩が分かると言う事はね、いよいよ改まりに改まらなければこの実感は湧いてこないってね、皮もむかれるぶら下げられもしとる、その間に渋が抜ける、その抜ける間にですね、いわば話で聞いて分かっておった神の大恩が実感としてね、これに対してどう報い奉らなければおられないと言った様な心が生まれてくる、信心の場合はそうです、もう本気で改まる以外にない。もう本気で磨く事に勤める以外にない。
その度合いが神様の大恩と言うものがいよいよ実感として分かって来るんですからね。ただ本で読んだだけでも分かる、話した聞いた頂けでも、ほんにそうたいち言う事は分かるね、けれども、その分かっただけじゃいかん、それが翻然として悟られる、そして何十年子供の時に聞いたそれをどうかして形に現してお返ししなければ、それに報いなければと言う様な心が、なら出来た様な実感が天地の親神様の上におかれるようなおかげを頂いた時が本当のお道の信心が分かったという時じゃないでしょうかね。
どうぞ。